2 .狐の大祓


 そもそも、霊能力があるからといって霊を掴んだり、殴ったりなど出来るものは稀有な存在だ。触れたような気がした、はっきり見えるだけ、程度の能力の持ち主はそこそこの数いるだろう。その程度の者でも手順と方法さえ間違わなければ、除霊も可能だ。実際テレビなどで騒がれている除霊者の中にはそういう者もいる。もう何度そのくらいの力だったら、と思ったかわからない。自分の力で捻じ曲げられない事実についてどうこう考えるのは馬鹿らしい。詮無い事だ、吐き捨てるような溜息をついて考えるのを止めた。このような、稀有な悩みに答えてくれるものなど皆無に近い、だってそれができるのはやっぱり稀有なものだからだ。

 紙袋に無造作に突っ込んだ制服とそれを持つ手にこびり付いたままの血糊。普通の水では落ちない汚れ――穢れだ。
 すっかり静まり返った町並みの住宅の屋根の上には不気味なほどくっきりとした満月。ついてるな、と思いつつそれほど多くない段を上り鳥居をくぐる。参道を少し行くと燈篭の横にある手水舎へ向かう。水盤に置かれた柄杓で、左手、右手と漱ぎ、手に水をためて口を漱ぐ、再度左手を漱いで後に残った水で柄杓を漱いだ。これを一回で掬った手水でしなければいけないことはあまり知られていない。実のところ、祖母に習わなければ自分だってそんなこと知りもしなかっただろうが。いや、この力が無ければ知らなくたってよかった。またこれも詮無い事。

 息を吸うと息苦しいのは気のせいではない。何せ今夜は満月だ。
 参拝する訳ではなく、幣殿と一体になっている拝殿の横を通り過ぎる。本来なら足を踏み入れる事も無かろう拝殿の横を抜けるとそこだけが鬱蒼とした茂みになっていて、近づくたび空気が重くなる。そこは、空気が違った。
 古井戸がそこにはある。普通の参拝客ならばこれに気づくことは無いだろうし、知る必要も無い。だが、彼、菊谷晴がこの井戸のことを知っているのはこれも祖母に教わったのだ。穢れを受けたら禊ぎをしなければならないことも、霊の掴み方、祓い方、干渉の仕方も、全てがそう。

 おそらくはこの神社の人間が御祓いや禊ぎなどに使うのだろう、古い井戸だがちゃんと使える。水を汲み上げると桶が揺れながら上がってくる。結構な重さがあるそれを引き上げる。それを躊躇無く頭からかぶり、もう一度汲み上げた井戸水に紙袋から取り出した制服浸けた。

「…えーと、何だっけ」

 昨日の夕食のメニューを思い出すかのように軽く眉間に皺を寄せて記憶を探る。

「あー…高天原に神留座す。神魯伎神魯美の詔以て。皇御祖神伊邪那岐大神。」

 最初の一言を言い出せばあとはつらつらと。九九や平家物語のアレを覚えさせられたのと同じ要領だ。まあ、こちらは祝詞なのだが。言霊の重さが違う、と祖母に叱られた事を思い出した。

「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生座る祓戸の大神達。」
『諸々の枉事罪穢れを拂ひ賜へ清め賜へと申す事の由を天津神国津神。』

 声が自分のものと、もうひとつ重なった。はっと息を吸う、だが酸素は入ってこなかった。物理的にではなく気管が締め付けられる。

「…っ!…や、八百萬の神達共に聞食せと恐み恐み申す」

 ようやくの思いで言い終えると、くく、と哂う声を背に受ける。

「4節しかない祝詞も碌に言えんのか」

 擦り傷を消毒したような痛みで沁みる手を押さえながら振り向く。

「だから御前は半人前なのじゃ、小童」

 爪先立ちをしているようでよく見るとその足先は地に触れてはいない、浮いているのだ。狐面に赤い簪、白に近い灰色の長い髪は重力など知らないように不自然に広がっている。それも全て高い霊力の賜物、彼のものこそ息苦しさの根源。鍾乳石のような肌を持つ指先がこちらを指していた。

「そら、祓ってやったぞ、未熟者」
「…どーも」

 いくら普通の人間以上の力があるとはいえ、所詮この入れ物は人間の身。高濃度の霊力に中てられて息苦しさだけではなく吐き気が込み上げる。その場に座り込んで嘔気を飲み込む。

「中てられたか」
「分かってんなら無駄に霊力大放出しながら出てくんな、パチ屋じゃあるまいし」
「御前はあいつに比べ出来が悪い、儂が気遣うべきだったの、年長者として。で、パチヤとは何ぞ?」
「無駄に人間くせーな、あーくそ、気持ち悪ぃ、パチ屋?俺知らね、未成年だもん」
「そうか、儂は人間臭いのか、そうか」

 満足そうに口元だけで笑うのを確認すると、圧力がふっと緩んで呼吸が楽になる。

「では人間臭く名を呼ぼうか、晴」
「…あんたが愉快そうにしてると俺は不愉快な気がするのは何でだろうな、ユサ」

 ユサ、と晴が呼んだ狐面はその面をずらすと紫の瞳が光った。この光のいろを見るたびに、ああこいつは人間の域じゃないなと思わされる。だが怖いと思わないのは慣れのせいか、彼のものに敵対する意思が無いからか。今夜の満月でいつもに増した霊力を感じる。殊更愉快そうなのはそのせいもあるのだろう。

「あ、ユサ、あんたに聞きたい事があるんだ」

 濃い霊力の混じった空気中の呼吸に慣れ始め、水に浸した制服を軽く絞りながら日中の事を思い出す。

「色恋事か?女か?」
「あんた無駄なとこばっかり人間くせーんだよ!」

 女、と言われ引っ叩かれたことが過ぎる。頬は別に今はもう痛くない、あの場では感心してしまっていたがよくよく考えれば腹が立ってきた。
 いや別に、クラスメイトじゃねーし。別に、いじめじゃねーし。つーか、俺叩かれる筋合いねーし。むしろ乱入してきて空気読んでないの向こうだし、うん、明らか空気読んでなかったね、あいつ。少っしだけ祓うんじゃなくて浄化させたのはすげぇかなとは思うけど、極僅か微量にミクロくらいの単位で思うけど。やっぱ俺、ビンタされなくてもよかったんじゃね?うん、あれ暴力だよ。

「ほう、つまり、その女子が気になると」
「ちっっげーーーーーーーよ!つーか思考勝手に読むな!」
「冗談じゃ、人間臭いだろう?」

 ふむと腕を組むユサがそれはもう憎らしくて、これが人間相手なら怒涛の突っ込みを入れているところだが相手は人外。行き場の無い苛立ちをしょうがないので制服を固く絞る労力に代えることにする。いつの間にか隣に胡坐を掻いて座って…はおらずどこかの宗教の教祖のように浮いてはいるが、化け物じみた印象などどこかへ行ってしまった姿にはスルメと一升瓶が似合いそうだ。

「しかし地縛霊となった怨霊に御前のように触れ、肩を貸し、情けを掛け浄化させるとはのう、あれだ、ほうら、何だったか…」
「…まさか菩薩?」
「そう、それじゃ、それのようじゃの」

 そのアバウトさが人間臭い、と言おうとして止めておいた。どうせまた喜ばせるだけなのだ。癪だ。

「やっぱ、そいつも俺と同じようなもんなんだろうな」

 同じ、霊を掴んだり殴ったり、または肩を貸したり出来る稀有な。
 ビンタは腹立つけど、根に持ってるけど。

「気になるか、気になるのか?晴」

 にやにやしながら顔を近づけられ、紫の瞳が目前に迫る。これほど接近されるといくら晴が霊力に中てられないようにユサが調節していても息苦しい。

「だからっ!ちが」
「ようし、それではの」
 
 嫌な予感がした。どうしてもっと頼れる怪が居ないのだろう、よりによってこいつなのだろう、と今は亡き祖母を恨んだ。ついでに咄嗟に耳を塞いだ。

「その小娘、儂が見定めてやろうぞ」
「あーほら、変なこと言い出した、あーあー聞っこえねえー」

 遠くか近くか、品の無い声で犬が鳴いている。

「…交尾でもしてんのか畜生」

 ああ、本当に自分の力で捻じ曲げられない事実について考えるのは馬鹿らしい。

 next→