8. 少女と司書補
伊藤の言うとおり、学校の正門を避け、裏側に回ると人気は少なくテニスコートとプールにも生徒の姿は無かった。テニス部と水泳部は今日は休みなのだろうか。
「まあ…とりあえずついてるな」
難なく校内に侵入したがあとは伊藤任せ、まさか生徒に死亡事故について訊く訳にもいかないのだし、できれば誰にも会わずにいたい。
「菊谷くん、こっち」
足音が聞こえてきそうなほど、人の形をした伊藤は校舎に近づいた。
「おい、俺これからはしばらく直接会話は避けるからな」
「じゃあ、どうやって…」
「感じろ、feelingだ」
そう言うと伊藤が一瞬僅かに引きつった表情をみせたが、すぐに取り繕ったのを見て苛立つ。
『馬鹿野郎そういう意味じゃねえ』
「わあ、超能力!」
わあ、じゃねえよ、と苛立ち並盛り追加しつつ、顎で早く案内しろと促す。
『桃園がいるときはあいつに話してるふりで通用するけどな、今見た目ひとりの俺が話し出したら可哀想な子だろうが』
「…いや、すごいなぁ…それもユサさんに?」
今や伊藤もまいこもすっかりユサさん、まいこ伊藤の仲だ。
『…生きるための術だよ。んな事よか、どうする?どこか思い当たる場所にいくのか?』
「ああ、上に…生徒会室へ行ってみようと思って。多分、僕はその辺りで…」
『死んだ、のか』
黙って頷いた伊藤は体育館の方を指差して歩き出す。
「体育館と校舎との間の渡り廊下からなら中に入れる。」
体育館からはスパイク特有の足音とボールの弾む音がする。
こういうとき、挙動不審になるほうが怪しまれる。堂々と渡り廊下から校内へ入り込む、ジャージ姿の生徒が体育館の中に居るのが見えたが向こうがこちらを気にする様子は無い。伊藤に急げ、と口に出さずに告げると伊藤は小走りに左右を見渡しつつ階段まで案内した。記憶を辿りながらなのだろう、どこか自信なさ気だ。
だが2階へ上がって、教室のある棟と特別教室と文化部部室棟とが別れているということを伊藤が思い出した。生徒会室も別棟にあるという。晴は別棟への途中2年の教室に立ち寄って、乱雑に置きっぱなしになっている学校指定ジャージを引っ付かんで小脇に抱えた。
「どうするんだい、それ」
『言い逃れ用だよ』
村上と名前の刺繍がされたそれはお世辞にもあまり清潔とは言えない。
『村上め、こんなくっせ-ジャージ着てんのか』
「知り合い…じゃないだろう?」
『知らん、こんな不潔な奴』
顔も知らぬ村上氏を扱き下ろしたところで伊藤の足取りはしっかりと、見知った場所を闊歩するものになっていた。体が覚えている、というやつだろうか。体育館へ行く渡り廊下と同じく、別棟との間にも渡り廊下があった。そこにも人気は無い。運がいい。遠くで吹奏楽部だろう、管楽器の音が聞こえる。
足早に伊藤が別棟へ渡ってすぐのところにある階段を上っていく。
『お、おいっ』
晴も遅れまいと駆け上ると踊り場あたりで差し込んできた日差しに一瞬眼が眩む。日当たりが良すぎる立地だ。
別棟への渡り廊下が2階だったから更に上ったここは地上3階になるのか、と思いつつ階段を上りきると正面の大きなガラス戸からはテニスコートとプールが見えた。
『…ここ、か』
伊藤の言ったとおり、ここは3階、ここから校舎裏のテニスコートとプールの間を通りやって来る久住さんを見ることができる。なるほど、見渡せば右手にテニスコート、今来た通路を挟んで左手にプールが、そのプールの裏手に体育館と対になってはいるが大きさは二分の一程度の建物。おそらくはそこで剣道部が練習しているのだろう。久住さんがこちらから出入りしていた理由がわかるし、伊藤が久住さんを盗み見る事が出来たわけだ。
「…ごめん、菊谷君」
先に階段を上った伊藤は背を向けたまま外を見ていた。
「ここじゃない、僕はここでは死んでない」
『はぁ?何だよ、お前さっき…』
「違うんだ、それだけはわかる」
窓ガラスに近づいて、何度もそうしたように伊藤は窓縁に手をかけて下を見下ろす。
「確かに最期に見たのは彼女たちの姿だ、いや…彼女だ。最期、僕は彼女のとても近くに…」
言いよどんでその場に屈みこんだ伊藤はもう人間にしか見えない。いや、彼は人間だ。肉体を持たないだけの、人間なのだ。
だからこんなにも、どうしようもなく煩っている。
明るいガラス張りの建物はまだ真新しく、日曜日と言うこともあり図書館内は子ども達の姿も目立つ。まいこはとりあえずぐるりと辺りを見渡した。
「はあ…でっかいなあ…」
案内板で目的地を探す。新聞記事の閲覧となればデータベース化されているはず、案内板によると4階とある。5階まである立派な図書館だ、そういえばこの町には場外馬券売場の大きな建物があるため財政が豊かなんだそうだ。
エレベーターがちょうど最上階に上がったばかりで、気が焦っているまいこは待ちきれずに階段へ向かった。広く、緩やかな階段は急いで駆け上がってもあまり辛くはなかった。2階と3階の間、踊り場に差し掛かったとき、持っていたメモ帳が手からすっぽ抜けた。ここ数日、伊藤から聞いた話をメモしたものだ。慌てて振り向くと階下まで転がっていくのが見えた。
「あっ」
身を翻して上った階段を降りると、ちょうど通りかかった女性がそれを拾い上げる。中身を見られたらまずいからメモなんかとるな、と言われたことを思い出す。
(そっか、確かに怪しい!)
個人情報を伊藤の記憶内とはいえ、事細かに記したメモ帳。今更意味を理解し、まいこは慌てる。幸いにメモ帳は閉じたままで落下し、女性も不審がることもなかった。
「はい、どうぞ」
「あ、すいません」
軽く頭を下げて顔を見る。同じ女であるまいこから見ても感嘆してしまうような、細身の整った女性だ。
(…綺麗な人!)
綺麗な、と言えばもしや…と一瞬頭を掠めたが、自ら打ち消す。
「…学生さん?」
「あ、はい!」
それもこれも、図書館の職員であるネームプレートを胸につけた彼女は、どう見ても学生ではなく、子どもが居るといわれても不思議ではない歳ではないだろうか。確実に四半世紀以上は生きているに違いないし、そんな簡単に見つかるはずがない、そう晴が言っていたのも思い出した。
「何か調べもの?」
メモ帳を受け取って、にこやかな笑みに思わず微笑み返したが、多分彼女のように上品にはできなかった。あんたは上品とはなんか違うとこにいるのよ、と友達が言った意味がわかった気がした。
「あ、司書補の水無瀬です。どちらをご利用ですか?」
訝しがっていると勘違いしたらしい女性が、水無瀬と書かれたネームプレートを見せるようにしながら名乗った。
「あの、過去の新聞を閲覧したいんですけど…」
「まあ、宿題か何か?」
「えーっと…はい、そんな感じです」
ふふ、と笑う水無瀬は、先月まで十代でしたと言われても思わず信じてしまいそうな雰囲気を持っている。なんというか、無邪気というか、なんというか。
こちらへ、と階段を上る水無瀬の後ろをついていく。光取り用の窓から日差しが入り込み、図書館全体は明るい。
「綺麗な図書館ですよね、ここ」
「この図書館は新しいの、一昨年移転してきたのよ」
「そうなんですか…それでこんなに綺麗なんだ」
「旧図書館はね、それほど老朽化していたわけじゃないのだけれど…噂が立ってしまって」
「…噂ですか?」
「そう、幽霊…って信じる?」
悪戯っぽく人差し指を口元に当てて、急に声を潜めた水無瀬の横顔を見る。
信じるも何も、まいこにとっては日常だ。トランプを一緒にするまでには普通の事だ。
「幽霊がね、出るんですって」
「旧図書館にですか?」
「…14年前、死亡事故があったの、それで噂になってしまったのよ。」
「へぇ・・・」
「夜な夜な探してまわるんですって…“ない、ない…”って」
穏やかではない話題も彼女の語り口では恐ろしさは感じない。怪談話の下手なタイプというか、幽霊というくだりもせいぜい赤ずきんちゃんの絵本で狼に丸呑みされるくらいの調子で話すのだ。何とも怖くない。
「まぁ、実際は税金の無駄遣いで立て直したってお話なんですけどね」
「え?あ、へぇ・・・」
(水無瀬さんって、マイペースってやつなんだ!)
お前が言うなタコ、と晴がいたならツッコミが入るところだが生憎不在の為まいこはひとり、やけに力強く納得しつつ数度頷いた。
晴と伊藤は有力な情報を得られないまま、誰にも怪しまれる事なく校内から脱出した。結局得たのは村上氏のジャージだけだ。晴は肩を落として、別棟から何も会話していない伊藤の様子を伺った。
最期、近づいた。
そう伊藤は言った。言って、くず折れた。そのあと何も言わずに。
坂道を下りながら、言葉を選びつつ声を掛けようとしたが言葉が選びきれなくて晴は頭をがしがし掻いた。うっかり持ち出してしまった村上臭のするジャージをどうしようかというのも頭が痛いところだ。
ふと、相武の正門と校舎裏との分岐点に淡いピンクのスカートの少女が立っているのが見えた。背丈からして小学生の中学年くらいだろうか、近所の子供だろうと然程気にならずに視線を戻そうとしたが、何かが晴には引っかかった。
何か、目を逸らせない、何か。
「あ…!」
口に出して声を出すと伊藤は振り返り、視線の先にいる少女を確認したようだ。
少女の手には靴が片方、それはどこかで見たような気がした。
「お前の靴じゃねえか…!」
伊藤の足元、対になるはずのもの。晴にはわかる。それは決して普通に拾えるものではない、と。それは伊藤もわかっているようで唖然としている。
「どうして…あの子は、あれに触れるんだい…?」
「知るかよ、ああ、でも、あの子は…死んでない、生きてる…」
伊藤の靴は持ち主と同じくもうこの世のものではない。それを抱える事が出来るのは死んでいる者か――死に触れる事が出来る者。
つまり、同類だ。
「遙花が拾ったのよ」
実に子供らしく、朗らかににこやかに素直に疑問の回答をくれることに疑いをかける必要は無い。相手は子供だ、子供は無邪気故に普通出来ない事が出来てしまうことがあるし、だいたいそれが稀有な事象だと知らない。
「…子どもは素直で助かるぜ」
躊躇いなく、警戒する事もなく少女は晴の前まで駆け寄って靴を差し出した、伊藤に向けて。
「これを持って、行きなさいって言われたの」
ゆるくうねる肩に少しかかるくらいの髪を小さな花のヘアピンで留めた遙花という少女は他意の無い微笑みをみせた。
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